2025年9月22日月曜日

序説

 はじめに、このブログの主な話の中心になる縄文時代中期、今から約5千年前の縄文人がどの様な精神的な考えや、世界観を持っていたか、考えたいと思います。主な地域は、長野県の中信から南信、山梨県から関東地方の西部にかけての地域になります。

 この地域は、特に地母神の顔の右目が諏訪湖、左目が富士山となぞらえて、「富士眉月弧文化圏」と特別に呼称される場合もあります。

 縄文時代中期は、約5千年前を指し、中部高地の土器編年では、中期中葉は「狢沢(むじなさわ)」→「新道(あらみち)」→「藤内」→「井戸尻」と続きます。その後、中期後半の「曽利1~5」へと移行します。一方、西関東地方では、狢沢から井戸尻までの時代を「勝坂」、東関東では「阿玉台」と呼びます。中期後半は、西関東地方では「加曽利E1~4」の土器編年となります。

 各時代の期間は、狢沢期が約500年間、新道期が約500年間、藤内期が約300年間、井戸尻期が約300年間、曽利期が約300年間と、合計で約2千年間に及びます。この時代は、特に縄文人の精神文化が花開いた時代になりました。

 縄文時代中期の縄文人も、現代の我々と同様に死に対する恐怖心を抱き、老いと死期を恐れていたと考えられます。そして、死は人生の終焉ではなく、再び現世に生まれ出る、という死と再生、生命の循環という考え方が縄文人の心の中心にありました。日本の神話学者、吉田敦彦氏は、このような縄文人の精神性を「縄文宗教と呼びました。

 縄文人の切実な願いは、彼らが使用した祭祀用の道具から推測されます。死後も生き返り、再生することを願っていたと考えられます。このような縄文人の願いは、彼らの世界観を形成する上で重要な役割を果たしたと考えられます。

 縄文人が使用した祭祀用の道具は、縄目で蛇の文様を施した縄文土器をはじめ、土偶、顔面把手付土器、香炉型土器、有孔鍔付土器、男性器を象徴する石棒、女性器を象徴する石皿、そして縄文人が寝起きする住居にまで及び、その他、様々な物が使用されました。

 縄文人の世界観を象徴するのが「月」でした。月は満ち欠けすることから、死と再生の循環を体現する天体とみなされ、不死の象徴とされました。月にまつわる神話は、縄文時代よりも時代は下りますが、中国では「不老不死の薬を持つ蛙」という神話がありました。縄文人も同じように考え、月を再生のシンボルとして信仰に取り込んだと考えられます。

 さらに、「火」もまた重要なシンボルでした。火は全てを焼き尽くす破壊、死の力を持ちながら、同時に新しい生命や、豊穣をもたらす再生の力と考えられました。

 (追記)炎の神とされるカグツツチにも、破壊と再生という二面性があると考えられます(2025年10月8日)。

 祭祀用の道具の文様として、多く使用された「蛇」は脱皮によって生命を更新する存在として、永遠の生命を体現しました。さらに、「猪」も強い繁殖力があり、生きるエネルギーそのものを象徴する動物として考えられました。さらには、赤や黒などの色や岬などの地形、洞窟などにも不死と再生のシンボリックを感じていました。

 このように、月・火・蛇・イノシシ、色や地形といった自然界の象徴を重ね合わせながら、縄文人は「死は終わりではなく、生命は再び蘇る」という死生観を育んでいきました。

 確証はありませんが、この時代に太平洋を直接横断したか、またはインドシナ半島、中国南部を経由してオセアニア、ニューギニア地方から「里芋」が伝来し、中国からは仰韶(ヤンシャオ、ぎょうしょう)文化」の思想が伝来した可能性があります。

 里芋に関しては、日本各地には、お月見の時に、団子ではなく里芋を供えたり、お正月の年の節目に里芋を食べる風習が残っています。さらには、里芋伝来の同じ地域から「精液」を神聖視し、その考えから男性器として石棒が作られ、生命活力の源(種神)とする考えも伝来したと考えられます。

 この里芋と同じくして、食物の死体化生神話が伝来した可能性が高く、それを裏付けるように「古事記」「日本書紀」には、ウケモチ神やオオゲツ神がスサノオに殺害され、その身体から穀物が発生するという地母神の神話や、イザナミの陰部、女性器からカグツチという火の神が発生したという神話があります。これらの神話は、同じ地域や北アメリカ地域にも見られます。

 さらに、中国からは、月には不老不死の水(酒)を持つヒキガエルがいるという神話も、中期縄文時代に日本列島に伝来した可能性があります。

 これらの思想の伝来の傍証となるのが、縄文時代中期に大量に発見される身体の一部が破壊された妊娠をした女性の土偶や、酒を作ったと考えられる有孔鍔付土器に見られる蛙や半人半蛙の文様です。

 (追記)里芋、食物の死体化生神話、中国からの仰韶文化の伝来の他に、「脱皮型」死の起源神話が伝来した可能性もあります(2025年10月8日)。

参考文献

①八ヶ岳縄文世界再現 井戸尻考古館 田枝幹宏 1988年 1月10日

②縄文宗教の謎 吉田敦彦 大和書房 1993年 7月25日

 


2025年9月19日金曜日

諏訪信仰のルーツを探る みしゃぐち信仰の謎

 はじめに

みしゃぐち信仰の起源を探る 縄文時代から続く祈りなのか?

諏訪信仰の中でも、特に謎に包まれているのが、「みしゃぐじ信仰」です。

諏訪大社上社前宮、本宮で行われる祭祀や民間伝承の中に登場する「御左口神(みしゃぐじ)」は、石棒や石神、あるいは境界を司る精霊として語られてきました。しかし、その正体は古代史研究においても、未だ明確に解き明かされていません。中でも議論を呼ぶのが、「みしゃぐじ信仰、みしゃぐじ神とは何か?みしゃぐじ信仰は縄文時代まで遡るのか?」など、その他にも様々な問題が存在しますが、まず、この問題を考えて見たいと思います。

縄文時代の遺跡からは、石棒や香炉型土器、有孔鍔付土器、顔面把手付土器、そしてこれらの土器には、蛇や蛙の文様をもつ土器など、祭祀を示す多くの出土品が見つかっています。これらは、「生命の再生」や「豊穣」を願う祈りの痕跡と考えられていますが、果たしてそれが直接、みしゃぐじ信仰に繋がるのでしょうか?

現代の研究者の中には、みしゃぐじ信仰を縄文祭祀の延長と捉える立場もあれば、古代国家成立後に形成された新たな神観念とする立場もあります。例えば、諏訪信仰研究の第一人者である藤森栄一氏は、みしゃぐじ信仰を諏訪大社前宮に伝わる鉄鐸の研究から迫り、みしゃぐじ神を生殖、生命力信仰に根ざした神霊として位置づけ、諏訪地方に残る石棒文化や蛇信仰との関連を重視しました。一方で、他の研究者では文献資料をもとに、みしゃぐじ信仰を中世以降に整えられた祭祀体系であるとみなす見解を示しています。

私自身も、岡谷美術博物館、尖石縄文考古館、諏訪市博物館、釈迦堂遺跡博物館を訪れて実際の遺物を目の前にしたり、また各地のみしゃぐじ社と言われる神社(祠)を探し求め、様々な文献を読み進めるうちに、「みしゃぐじ信仰は、本当に縄文時代から続くのか?」という疑問を深く抱くようになりました。

私のブログでは考古学、民俗学、歴史学の視点を交えながら、みしゃぐじ信仰の謎に迫りたいと思います。結論が、どの様なものになるのか、今の時点では全くわかりません。

適時、ブログの内容や解釈の変更、間違いの修正がありますのでよろしくお願いいたします。

諏訪地方に古代から受け継がれてきた古代の人々の祈りの形を探り、その背後にある世界観を少しずつ紐解いて行きたいと思います。

よろしくお願いします。